近江の城めぐり

第64回 箕作山城東近江市

清水山の山頂に建つ「箕作城阯」の石碑
(東近江市五個荘山本町)

六角氏、信長軍と激戦

湖東平野にそびえる独立山塊のきぬがさ山には、観音寺城という巨大な山城跡が残されています。中世に南近江を支配した佐々木六角氏が本拠地として戦国時代に築いた山城です。江北を支配した京極氏としばしば争い、六角氏の家督争いも絡んで観音寺城は争奪戦の舞台にもなりました。そうした経緯から、観音寺城の周囲には和田山城、佐生さそう城といった支城が点在します。箕作山みつくりやま城もそうした支城の一つです。

繖山の南には、中山道(現在の国道8号)が通る狭隘部を介して箕作山山塊が連なります。この山塊には北の清水山と南の箕作山の二カ所の山頂があり、清水山の方に箕作山城があります。また、現在送電線の鉄塔が建っているところが主郭であり、東西北の三辺に土塁が築かれています。また主郭の東方にもやや小規模なくるわが設けられており、これの東辺にも土塁が築かれています。そして、東西両方向へ延びる尾根からこれらの郭に到着する虎口こぐち付近には、それぞれ小規模な石垣が認められます。

なお、この城跡の東方の小ピークに「箕作城阯」の石碑が建っていますが、実際の箕作山城はこの辺りまでは広がっていないようです。

箕作山城は小規模な山城ですが、「信長公記しんちょうこうき」には織田信長の六角攻めに際してこの城をめぐる激しい攻防戦があったことが記されています。1568(永禄11)年、信長の侵攻に備える六角承禎しょうてい義弼よしすけ父子は、和田山城と箕作山城に将兵を配して観音寺城の防御を固めました。一方、信長軍は、観音寺城を攻撃する前に主力軍を傾注して箕作山城を攻撃し、これを落としました。これを見た六角氏父子は夜陰に紛れて甲賀方面へ脱出したため、観音寺城は戦火を交えることなく落城しました。

保存状態が良いとは言えない箕作山城ですが、近江の勢力図の趨勢すうせいを決した重要な城です。現地から観音寺城跡を間近に望めば当時の緊迫した様子を実感することができます。

(滋賀県文化財保護課 伊庭功)