近江の城めぐり
第62回 金剛輪寺愛荘町
県指定文化財の「金剛輪寺下倉米銭下用帳」(金剛輪寺蔵)。1544(天文13)年の会計記録で、地域で深刻な水争いが起き、百済寺と西明寺から書状が届いたと記している
法灯守るために城塞化
湖東地方における天台宗の名刹、西明寺・金剛輪寺・百済寺は湖東三山として知られます。今は静かな信仰の場である3カ寺ですが、戦国時代にはいずれも、寺を守るために城塞化されたと考えられています。
金剛輪寺では、尾根上に郭がもうけられ、敵の攻撃を遮断する堀切も確認されます。一般的に中世寺院では、谷筋に僧坊を設け、尾根筋は自然のままとなっていることが通常です。戦国期の金剛輪寺が城郭さながらの施設を設け、防御性を高めていたことは間違いありません。それでは、城郭のような戦国寺院の実態は、どのような様子だったのでしょうか。
ここで注目されるのが、「金剛輪寺下倉米銭下用帳」(県指定有形文化財)という古文書です。1486(文明18)年から1557(弘治3)年までの約70年間にわたる詳細な支出記録であり、火災に遭って縁を焦がしていますが、103枚が伝えられています。
内容をみると、室町幕府をはじめ六角氏や京極氏、その家臣である三上氏、多賀氏、鞍智氏、さらには在地武士の目加田氏、安孫子氏にいたるまで、あらゆる階層の武家勢力に絶えず金品や酒食、労役、宿舎などを提供し続けており、驚くばかりの負担を強いられていることがわかります。
将軍足利義尚の近江出陣時には、安全保障料を支出。六角高頼と京極高清が合戦を繰り返した時期には、対立する双方に金品などを負担し、地域で水争いがおきたときは、在地の武士に酒代を供与しました。六角氏の勢力が安定した1557(弘治3)年ころには観音寺城の石垣築造に奉仕したり、大量の矢柄生産を担当させられたりもしています。
城塞化した戦国寺院とはいいながら、決して武装した僧兵らが武士勢力と対等に渡り合っていた、というイメージではないようです。戦国期の湖東三山は法灯を守るために武士勢力への支出などあらゆる努力を行い、城塞化もそうした努力のひとつだったといえるでしょう。
(滋賀県文化財保護課 井上優)
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