近江の城めぐり

第60回 敏満寺城多賀町

名神高速道路多賀サービスエリア(上り)にある敏満寺城跡
(多賀町敏満寺)

寺院や町の武装化示す

名神高速道路多賀サービスエリア(多賀町)は、湖東三山と多賀大社の中間にそびえる青龍山せいりゅうざん(標高333m)から北方にのびる舌状ぜつじょうの台地に建設され、大勢の人でにぎわっています。

1986年、多賀サービスエリア改良工事に伴う発掘調査で、土塁どるい櫓台やぐらだい、石積みを伴う虎口こぐちといった戦闘・防御のための施設が発見されました。

この一帯は、縄文時代から近世までのさまざまな遺構が残され、敏満寺びんまんじ遺跡として知られています。その中心は、平安時代に伊吹山寺いぶきさんじの僧三修さんしゅうが開基したと伝えられる天台宗寺院「敏満寺」で、東大寺再建のプロデューサー俊乗坊重源しゅんじょうぼうちょうげんが1198(建久9)年12月に敏満寺に寄進した金銅製五輪塔(重要文化財)が胡宮このみや神社に伝わっています。室町時代には、50を超える堂舎が建ち並び、西明寺さいみょうじ金剛輪寺こんごうりんじ百済寺ひゃくさいじと並ぶ大寺院であったようです。

ところが、平安時代末期から戦国時代にかけて、武家だけではなく寺院や神社、ムラも人や土地、富や権力を守るために武装化していきます。敏満寺周辺は、六角氏と京極氏・浅井氏の権力の境目にあたり、領地争いの最前線となりました。こうした情勢の中で、城郭施設である敏満寺城が築かれたと考えられます。

その後の発掘調査では、酒や染料などを貯蔵する大甕おおがめが並ぶ埋甕うめがめ遺構が発見され、酒屋などが建ち並ぶ町屋が一帯に広がっていたこともわかりました。さらに、青龍山の麓の石仏谷いしぼとけだに遺跡が13世紀から16世紀まで続く国内最大級の中世墓群ぼぐんであることもわかり、国の史跡に指定されました。

これらは、寺院である敏満寺が城に変貌したのではなく、寺や墓、町を守るために城が造られ機能していたことを示しています。敏満寺城は、寺院や町の武装化を具体的に示す貴重な遺跡であり、上り線の多賀サービスエリアでいつでも見ることができます。

(滋賀県文化財保護課 小竹森直子)