近江の城めぐり

第59回 岩神館・朽木城高島市

興聖寺境内に残る岩神館の土塁
(高島市朽木岩瀬)

京を追われ将軍が滞在

朽木くつきは湖西の山深い地域ですが、京都と若狭を結ぶ若狭街道が通る交通の要衝です。この朽木を領地として支配していたのが、近江源氏佐々木氏の一族の朽木氏で、居城の朽木城は朽木地域の北端に位置します。城があった場所(高島市朽木野尻)には現在、朽木郷土資料館が建っており、しかも江戸時代には朽木藩の陣屋があったことから、中世の朽木城はかなり改変されて痕跡はほとんど確認できません。しかし朽木は畿内の戦国時代を語るうえで欠くことのできない場所の一つです。

1528(享禄きょうろく元)年、細川晴元はるもとに京都を追われた第12代将軍足利義晴よしはるは朽木稙綱たねつなを頼って朽木にやってきました。この時、将軍が滞在する屋敷として整備されたのが岩神館いわがみやかたです。朽木地域の南端、朽木城を南に約1.5キロ離れたところにありました。現在は興聖寺こうしょうじの境内地となっています。墓所の背後に土塁どるい空堀からぼりが残っています。境内隅にある名勝旧秀隣寺しゅうりんじ庭園は、将軍足利義晴とともに朽木に滞在した細川高国たかくにが将軍を慰めるために作庭したものと伝えられます。

義晴の跡を継いだ第13代将軍義輝よしてるもまた、畿内での争いに敗れるたびに近江に逃れ、朽木にもやってきます。その際に滞在したのも岩神館と思われます。朽木氏は幕府の奉公衆ほうこうしゅうという将軍直属の武将であり、守護からは自立していたことから、京都を追われた将軍に頼られていたのです。

岩神館の廃絶がいつのことかはわかっていませんが、1606(慶長11)年に朽木宣綱が正室の菩提寺として館跡に秀隣寺を建立しています。また、1729(享保14)年には興聖寺がここに移されています。訪れた時には、かつて将軍が滞在した館の名残の土塁や庭園にぜひ注目してください。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)