近江の城めぐり
第58回 水茎岡山城近江八幡市
八幡山から水茎岡山城跡を望む。右が頭山、中央が大山
(近江八幡市牧町)
足利幕府興亡 今に伝え
水茎岡山城は、八幡山の西方、琵琶湖に面した内湖に突出する頭山に築かれた山城です。現在は、安土城と同じように内湖が埋め立てられていて、当時の風情ある景観は失われていますが、「湖中の浮城」として有名です。
城主は六角氏の被官の九里氏です。伝承によれば、六角氏が湖上交通を掌握するために築かれたもので、1508(永正5)年ころより本格的な築城が行われました。一般には知られていませんが、戦国時代の歴史、近江の歴史を語るうえでとても重要な位置を占めている城の一つです。
戦国時代の幕開けとなる応仁の乱で、諸国の守護が東西に分かれて争う中、将軍の権威は衰え、代わって諸国を支配する守護の力が強まります。そんな中、足利幕府9代将軍義尚は、将軍の権威回復を目指して近江守護六角高頼を討つために近江に入り栗太郡鈎の安養寺に陣を構えます。この後、将軍はしばしば近江に移り住むようになりました。そして11代将軍となった義澄が京を逃れ、九里氏に身を寄せたのがこの水茎岡山城だったのです。後に12代将軍となる義晴はここで誕生しています。
その後も義澄の京への復帰はかなわず、1511(永正8)年、むなしくこの城で病没しました。そして、六角氏とその家臣伊庭氏との争いで九里氏も伊庭氏とともに敗れて水茎岡山城は廃城となったのです。
さて、城は南の大山と北側の頭山に分かれ、大山は琵琶湖と反対側の陸地部分を正面とし、麓には館跡、山腹と山頂には大きな土塁で囲われた長方形の長い郭を配しています。また、堀切を隔てたもう一つの山頂である頭山にも郭が築かれていたようですが、後世の造成でほとんどが破壊されています。
1980年と1981年に、湖岸道路の建設にともなう発掘調査によって、頭山と大山の間の堀切部分から将軍の仮御所にふさわしい規模の大きな建物跡や石垣が発見されています。足利幕府の興亡にその名を刻んだ城。そして幕府の仮御所ともなった琵琶湖を望む明媚な城です。
(滋賀県文化財保護課 木戸雅寿)