近江の城めぐり

第57回 堅田大津市

堅田の総鎮守の伊豆神社。手前の石橋の下を掘割が通る
(大津市本堅田1丁目)

社寺特権で自治都市に

1994年5月14日、京都・葵祭の前日にあたるこの日に、本堅田ほんかたたから京都・下鴨神社へふなと鮒寿司を献上する祭事「献撰供御人けんせんくごにん行列」が堅田の人々によって復活しました。祭事の由来は、1090(寛治4)年、堅田に下鴨しゃ御厨みくりやが置かれたことによります。御膳料ごぜんりょうとして鮮魚を献上する代わりに諸役しょやくが免除され、下鴨社の庇護ひごを受けたのです。その後、延暦寺横川よかわの荘園にも組み込まれた堅田は、これらの権威を背景に守護や国人領主の支配を排除し、自治都市として大いに繁栄しました。

堅田の町を縦横にめぐる水路は、琵琶湖につながる水運の出入口であるとともに、堅田の自治を守るための防御施設としての役割を担っていました。堅田の町は、城塞としての顔を持っていたのです。

堅田の繁栄は、下鴨社と延暦寺に支えられていました。下鴨社は、琵琶湖辺の諸浦の舟が堅田の沖合を通行する際、金品を納めさせて通行の安全を図る「上乗うわのり」という権限を堅田に与えました。これは、堅田の人を舟に乗せて舟の舳先へさき双葉葵紋ふたばあおいもんの旗などを立て、他所のものに海賊行為を懸けられないようにするものでした。

一方、延暦寺は沖合を通行する舟から「関銭せきせん」を取る「湖上関こじょうせき」という税関を設け、堅田に実務を任せました。こうした権限を拡大することによって、湖上勢力の中では「諸浦の親郷」と称されるような特権的な地位を獲得したのです。

ところが1570(元亀元)年、織田信長の攻撃を受け、堅田の自治は終わりを告げます。その後、羽柴秀吉が大津百艘舟ひゃくそうせんの命を出し、新たな琵琶湖水運の担い手として大津に舟を集結させたことで、堅田は一漁労集落となってしまいました。

しかし、堅田の人々は今でも自らを「湖族」と呼んで、かつて琵琶湖を自由に行き来した歴史を誇りに思っています。かつての堀や船入は埋め立てられていますが、その痕跡はいたるところに残っています。堅田を訪れ、湖族の息吹を感じてみてください。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)