近江の城めぐり

第54回 永原御殿野洲市

永原御殿から移されたと伝えられる浄専寺表門
(野洲市北)

将軍の宿 軍事施設にも

永原御殿ながはらごてんは現在の野洲市永原にあり、1601(慶長6)年から1634(寛永11)年までの間、将軍である徳川家康、秀忠、家光が上洛する際に宿泊や休息するため、計10回利用しました。これは、御茶屋おちゃや御殿と呼ばれる施設で、全国的な宿駅制度が整備される以前の江戸時代初期には各地に設けられました。近江には中山道に柏原かしわばら御殿、朝鮮人街道に永原御殿と伊庭いば御殿、東海道に水口御殿の4カ所が造営されています。

現在の永原御殿跡は、石垣と堀や地割の一部が残るだけで、往時の姿をうかがい知ることはできませんが、文書史料によると当初から周囲に堀を設け、本丸と二の丸を備えた城郭として造営されたことが分かります。これは、宿泊だけでなく、有事には軍事施設となる役割を担っていたためと考えられます。

幕藩体制が確立して以降、将軍の上洛はなくなり、1685(貞享2)年に永原御殿は廃止、建物は入札にかけられ、残された建物は1705(宝永2)年に全て焼き払われました。入札された建物の行方は不明ですが、永原御殿から移築されたと伝えられる門が野洲市北の浄専寺じょうせんじにあります。

表門は、薬医やくい門と呼ばれる形式で、太い親柱の間に縦格子を組んだ両開きの扉を吊り、正面に向かって左側に脇柱を立てて脇扉を設け、屋根は切妻造きりづまづくりで本瓦葺ほんがわらぶきとする重厚な構えの門です。

表門の柱の背面や側面、柱の頂部をつなぐ冠木かぶきなどの部材には、柄穴や埋木うめきが随所にあり、かなり大きな改造を受けていることが分かります。これは、現在の形式と異なる門の一部を利用したか、複数の建物の部材を寄せ集めた可能性を示しています。さらに、柱や貫、扉の格子などの部材が太いことから、城郭や武家住宅の門であった可能性は高いと考えられます。

言い伝えのとおり永原御殿の門を移築したとすれば、将軍上洛時の御茶屋御殿の実態を知る上で非常に貴重なものです。その確定は、今後の調査に待つしかありません。

(滋賀県文化財保護課 尾山義高)