近江の城めぐり
第45回 東野山城・田上山城長浜市
東野山城跡に残っている土塁に囲まれた郭跡
(長浜市余呉町東野)
羽柴軍、柴田軍と対峙
琵琶湖の北に位置する余呉湖周辺は、1583(天正11)年4月、羽柴秀吉と柴田勝家が激突した賤ケ岳の戦いの舞台です。東野山城と田上山城は、その時、羽柴秀吉が柴田軍に対する備えとして築いた陣城です。
東野山城は北国街道の東、標高407mの山頂に位置します。城は、横堀と土塁で複数の郭を囲み、枡形虎口や食い違い虎口を備えた複雑な構造を有しています。田上山城は東野山城より約5キロ南、北国街道の東に位置する標高330mの田上山山頂に築かれました。この城も東野山城と同じく、土塁と横堀で複数の郭を囲み、枡形虎口を備えた堅固なつくりとなっています。こうした構造は、これらの城が攻撃よりも防御を念頭に置いて築かれたことをうかがわせます。
この他にも、賤ケ岳の戦いでは余呉湖畔に両軍の陣城が多数築かれました。柴田軍は越前と近江の国境に位置する玄蕃尾城を本陣とし、そこから北国街道沿いに南に向かって行市山砦や別所山砦などの砦を数多く築きました。また、砦をつなぐ軍道が整備されていることから、これらの砦は大量の軍勢が南下する時の基地となるものと考えられます。
対する羽柴軍は、余呉湖の北側に第一の備えとして東野山城、堂木山砦、神明山砦などを、北国街道をはさむ位置に築き、さらに南下した木之本付近に田上山城、大岩山砦、賤ケ岳砦などを築いて第二の備えとしました。これらは、土塁や空堀を備えた堅固なもので、柴田軍の南下に備えたものでした。
賤ケ岳の戦いは、七本槍の華々しい活躍に注目が集まっていますが、実は羽柴・柴田両軍が対峙する中で、多数の陣城が築かれた築城戦でもあったのです。
(滋賀県文化財保護課 松下浩)