近江の城めぐり

第43回 打下城・大溝城高島市

大溝城跡で唯一現存する遺構の天守台の石垣
(高島市勝野)

信長、地域支配に利用

JR湖西線の近江高島駅付近は琵琶湖と山が最も接近している場所の一つですが、駅をはさんで、山側の山上に打下うちおろし城が、琵琶湖側の湖岸に大溝おおみぞ城があります。

打下城は永禄年間(1558~1569)に土豪の林与次左衛門員清はやしよじざえもんかずきよが築城したといわれ「大溝古城」とも呼ばれています。麓にある日吉神社の参道口から山王谷さんのうだにを1時間ほど登ると、高島平野と琵琶湖が一望できる山城に着きます。「信長公記」には1573(元亀4)年、織田信長が「林与治左衛門所」を陣所として高島郡を攻撃したと記されています。

その後、高島郡を手に入れた信長は、1578(天正6)年、城下との行き来が不便な打下城を廃城とし、琵琶湖の内湖である洞海どうかい乙女おとめケ池)の近くに、信長のおいにあたる津田七兵衛信澄つだしちべえのぶずみに命じて、明智光秀の縄張(設計)で大溝城を築きます。信澄の父は清州城で信長に殺された信長の弟、信行のぶゆきです。罪滅ぼしのために城を与えたのでしょうか。城は若狭方面からの攻撃に備え、有事の時には狼煙のろしを揚げ、安土城の信長が琵琶湖を舟で応援に駆け付けることを想定していたと言われています。

大溝城は現在、天守台の石垣が残るのみです。また、1983年の旧高島町教育委員会の本丸東側の範囲確定調査では、安土城の軒丸瓦のきまるがわらと同じ木型で紋様を押した軒丸瓦が出土しています。信長の次男織田信雄のぶかつの伊勢松ケ崎城でも、安土城と同じ木型で紋様を押した金箔きんぱく瓦が出土していますが、大溝城の瓦は金箔瓦ではありませんでした。織田一門とはいえ甥にあたり、直系一族でなかったため金箔瓦の使用が認められなかったようです。

信澄は本能寺の変直後、光秀の娘婿であることが災いし大坂野田城(大阪市福島区)で織田信孝に殺害されます。そして大溝城は解体され、水口岡山城(甲賀市)に移築されたと伝えられています。近年、水口岡山城本丸跡からも先述の瓦が出土しており、言い伝えが本当である可能性が高まっています。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)