近江の城めぐり

第41回 長浜城(下)長浜市

長浜城の天守跡。現在は石碑と豊臣秀吉の像が立っている
(長浜市公園町)

秀吉期の実態は不明確

長浜城は、羽柴秀吉が織田信長から与えられた北近江三郡を治める拠点として築いた、彼の出世街道の第一歩をしるした城です。

安土城築城と前後して、琵琶湖周辺には織田信澄のぶずみの大溝城(高島市)、明智光秀の坂本城(大津市)、そして秀吉の長浜城が築城されました。これらは互いに水陸の交通でつながりながら、近江の外へつながる街道との結節点に位置しており、信長の天下統一構想の重要な一角を担う城であったことがうかがえます。

秀吉時代の長浜城は、残念ながらその実態がほとんどわかっていません。現在、ほう公園にそびえる長浜城(長浜城歴史博物館)は1983年に建造された模擬天守です。長浜城の石垣や資材は彦根城築城のために持ち去られたといわれ、さらに1910(明治43)年に豊公園が整備されたのをはじめとして、鉄道、港、道路の建設や埋め立てによって城の面影はほとんど残っていません。

江戸時代の絵図や地名によると、天守は模擬天守の北西約50mの場所にありました。その周囲には小字本丸の地名が残されています。その東側には内堀となる入り江があり、現在の湖周道路の下にあたります。内堀と外堀の間には内殿町うちどのまち殿町とのまちといった旧地名があり、家臣の屋敷が集まっていたとみられます。外堀は二重に巡っていたようで、現在の長浜駅口交差点の東側を南北に流れる川が外側外堀の遺構です。

城内で実施された発掘調査では、水際に残る「太閤井たいこうい」をはじめとする石垣の遺構が見つかっていますが、依然として城の全体像は不明確です。

彦根城の天秤櫓てんびんやぐらが移築されたほか、市内の大通寺だいつうじ台所門は長浜城の大手門、知善院ちぜんいん表門は搦手門を移築したものといわれています。しかしながら、これらの移築建物や絵図からうかがえる城の姿は江戸初期に内藤信成ないとうのぶなりが改築した長浜城のものと考えるべきで、秀吉が築いた城は霧の向こうに隠れたままです。

(滋賀県文化財保護課 伊庭功)