近江の城めぐり
第40回 長浜城(上)長浜市
長浜曳山祭。曳山の上では子ども歌舞伎が演じられる
(長浜市)(写真は(公社)びわこビジターズビューロー)
秀吉統治 繁栄の原点に
1573(天正元)年、小谷城で浅井氏を滅ぼした織田信長は、浅井氏の旧領湖北三郡の地を羽柴秀吉に与えました。秀吉は、1574(天正2)年から湖に面した長浜の地に城と城下町の建設を始めます。城下町を発展させるべく、年貢や諸役を免除して税制面に配慮した政策を行い、商人や職人を呼び寄せました。商業や土木、建築、武器の製造などを行うさまざまな町人を保護し、自身の支配下に置いて領国経営を行おうとしました。その後の秀吉による天下統一と歩調を合わせるように、長浜の町も発展をとげていきます。
関ケ原の合戦後、長浜城には徳川家の譜代大名である内藤信成が入ります。しかし大坂の陣後、内藤家は摂津高槻城に転封となり、長浜は彦根藩井伊家領となり、約40年で長浜城は廃城とされ破却されました。城というシンボルを失ってしまった長浜ですが、その後も縮緬を中心とする繊維産業を核に在郷町としての発展をとげていきます。
さて、長浜城の城下町には、舞台が付いた曳山を巡行し、その上で子ども歌舞伎が演じられる長濱八幡宮の祭礼行事、長浜の曳山祭があります。各町から引き出される曳山は、羽柴秀吉が長浜城主の時に男子が生まれたことを祝い、城下の町民に砂金を与えたことから、これを元金にして建造されたものであると伝えられています。町人たちが蓄えた資材は、文化や芸術へと向けられ、歌舞伎に代表される曳山の祭りにも惜しみなく注がれました。
秀吉と曳山の建造を結びつけて語る伝承は事実かどうか定かではありませんが、すでに江戸時代の段階でこの伝承が語られています。長浜では秀吉の死後すぐに豊国神社が勧請されていることからも、秀吉のまちづくりこそが長浜の繁栄の原点であると意識されてきたことがわかります。
長浜の町を舞台に繰り広げられる曳山祭は、秀吉の城下町建設から始まり商業の町へと発展するなかで、町衆の自治意識や心意気、文化の力を見せる祭礼行事となって今に伝えられているのです。
(滋賀県文化財保護課 矢田直樹)
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