近江の城めぐり

第37回 信長以後の安土城近江八幡市・東近江市

繖山から安土山をのぞむ。昭和に干拓される以前、安土山は内湖に囲まれていた。
(写真の奥と右側の田んぼ周辺)

廃城、巨大な墓標に

安土城は本能寺の変の後、天主をはじめとした主郭部が焼失しました。しかし安土城の歴史がそこで終わったわけではありません。信長の死後も安土城には様々な人がかかわっているのです。

本能寺の変の後、明智光秀が安土に入城し、光秀の死後は織田信孝、羽柴秀吉、織田信雄のぶかつが相次いで安土城に入ります。これらは、信長の後を継いで天下を治めるのが自分であることを広くアピールする行為です。天下人の居城としての安土城は、信長の死後も機能し続けていたことになります。

最終的に安土城が廃城となるのは、羽柴秀吉の天下が定まった小牧・長久手の合戦以後のことです。合戦後の1585(天正13)年、秀吉はおいの秀次に八幡山城(近江八幡市)を築かせます。八幡城下町の建設によって、安土は衰退し、廃城にいたったと考えられます。

廃城後、江戸時代の安土山は、山内にある信長の菩提寺の摠見寺そうけんじが守り続け、伝二の丸に建つ信長びょうを中心に信長の巨大な墓標となります。信長の子孫である織田家一族や、旧城下町部分を領地とする仁正寺にしょうじ藩主市橋氏などが信長廟参拝に訪れ、50年ごとの遠忌供養おんきくようが行われています。

近代にはいると、歴史の舞台としてふたたび注目をあびることになります。明治から昭和にかけて言論界で活躍した徳富蘇峰とくとみそほうが、大著「近世日本国民史」の織田氏時代編執筆にあたり、調査のために安土山を訪れたのは1918(大正7)年のことです。滋賀県の地方史家中川泉三せんぞうの案内で安土山をはじめとした関連史跡をまわった蘇峰は、以後泉三や当時の摠見寺住職松岡道軌どうきとの交流を深めます。

彼らの交わりはその後も長く続き、現在、県道2号から安土城跡へ向かう道の交差点や、安土城跡百々橋どどばし口に立つ石標の文字は、道軌から依頼されて蘇峰がしたためたものです。また安土城跡には蘇峰が安土山をたたえた漢詩を刻んだ詩碑があり、裏面に泉三が詩碑建立の経緯を記しています。1933(昭和8)年の信長350回忌には蘇峰が記念講演を行うなど、近代の安土城跡の保存や顕彰に徳富蘇峰は深くかかわっていたのです。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)