近江の城めぐり
第36回 多喜山城栗東市
江戸時代に描かれた「多喜山城図」。縄張りや直線的な土塁の様子など、城の特徴を明確にとらえている
(県指定文化財「里内文庫資料」)=栗東歴史民俗博物館所蔵
※画像の複製を禁じます。
江戸時代に描かれた「多喜山城図」。縄張りや直線的な土塁の様子など、城の特徴を明確にとらえている
(県指定文化財「里内文庫資料」)=栗東歴史民俗博物館所蔵
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一向一揆の鎮圧へ築城
栗東市六地蔵、旧東海道の南側に標高222mの日向山があります。その山頂部にある城跡が、多喜山城跡と呼ばれています。
山頂の中央部には、四周を土塁で囲まれた長方形の郭があり、主郭と呼ばれています。主郭の西側にはさらに二つの郭が配置されていますが、東側に郭は設けていません。主郭の東側は、急な崖のため郭が築造できなかったのです。その代わりに、北東端に20m四方の方形陣地(後世の天守台を思わせる遺構)を築き、東側の防御を強化しているのが注目されます。
さらに防御施設として、主郭へ入る東西の虎口(出入口)が優れていて、攻め手の側面を射撃することができるよう複雑な構造となっています。
多喜山城の城主は誰だったのか、いつごろ築かれたのかについては明らかとなっていません。「高野神社起源」という古文書には、1462(寛正3)年に築造され小槻氏や高野氏といった地域の武士が城主であったと伝えていますが、異説もあります。栗東市教育委員会の藤岡英礼さんは、城跡の遺構、とくに虎口の特徴などから織田信長配下の武将が築いたと推測されています。
1570(元亀元)年から1573(元亀4)年にかけて、永原城(野洲市)を拠点とする織田軍の武将・佐久間信盛が、湖南一向一揆の鎮圧にあたります。多喜山城は、一向勢力の一拠点であった福正寺を眼下に見下ろし、信長と敵対した六角氏がこもる甲賀郡への入口をも抑える要害でした。佐久間信盛やその配下の軍団が築城し、一向一揆と対峙した砦として、歴史の緊張感がよみがえる古城です。
(滋賀県文化財保護課 井上優)