近江の城めぐり

第35回 百済寺・鯰江城東近江市

鯰江城跡に立つ石碑
(東近江市鯰江町)

信長の近江侵攻に抵抗

湖東三山の一つとして有名な百済寺ひゃくさいじは、東近江市のほぼ中央、鈴鹿山脈の西端に位置し、鯰江なまずえ城はそこから名神高速道路を挟んで約4キロ南西の愛知川右岸の段丘に所在します。

百済寺は、聖徳太子によって開かれたと伝えられる寺院で、中世の最盛期には300を数える坊に千人以上の僧を擁し、カトリックの宣教師ルイス・フロイスも「地上の天国」とその有様を記しています。また、多数の様々な人々が生活する宗教都市として、自衛のために堀や土塁などの防御施設を築いており、城郭の機能を兼ね備えていました。

1568(永禄11)年以降は、織田信長の侵攻に備えて僧坊などを改築し、城郭としての機能をさらに強化していたと思われます。しかし1573(天正元)年、信長によって全山焼き討ちにあい、中世の威容も灰燼かいじんと期してしまいました。その後、江戸時代に入り天海僧正の高弟、亮算りょうさんによって伽藍がらんが復興され、1650(慶安3)年には本堂、仁王門、山門などの落慶供養が行われています。

現在、国の史跡に指定されている境内には、重要文化財の本堂、東近江市指定文化財の総門、三所権現社さんしょごんげんしゃ、鐘楼、国の登録有形文化財である喜見院きけんいん書院などが残されています。

鯰江城は、1568年に織田信長が六角氏の本城、観音寺城を攻めたことから、近江守護六角義治をむかえて籠城するためにつくられた城です。1573年、信長との戦いに敗れて廃城となったため、16世紀後半の一時期の様子を今に伝える貴重な城といえます。

この城は、在地の土豪森氏の居城を、義治の命により鯰江満介みつすけが改修したもので、堀跡や土塁、石垣と門の礎石が残る城門と考えられる遺構、石組水路、土塀跡などが発掘調査で見つかっており、これらを造るための大規模な土木工事の様子が記録にも残されています。

「戦のための城」「祈りのための寺院」。今考えれば異なった機能を有する両施設ですが、近江守護六角氏との関係から、織田信長の近江侵攻に抵抗した共通の歴史を持っています。

(滋賀県文化財保護課 寺西正裕)