近江の城めぐり
第34回 山本山城長浜市
琵琶湖から山本山を望む
(長浜市湖北町山本)
小谷城防衛の要を担う
山本山城は、琵琶湖北東岸の塩津湾口に位置します。城跡からの眺望は北近江平野一帯はもとより、広く琵琶湖上にひろがります。また、眼下には尾上港、そして北陸への玄関口塩津港へ往来する湖上の船をにらむことができます。標高324mの山城ですが、湖上交通の掌握を目指したという点では、湖城ともいうべき存在です。
この山本山城は歴史上、二度にわたって表舞台に姿を現します。最初は平安時代であり、二度目は戦国時代です。
山本山城の最初の登場は、源義経とともにあります。といってもこの義経は源頼朝の弟の義経とは同名別人の近江山本山城主の山本義経で、1180(治承4)年に諸国の源氏とともに反平氏の兵を挙げました。当時の公家の日記「玉葉」によれば、「山下兵衛尉義経」らの「徒党千余騎」は「山下城」に拠って、平知盛・資盛らの率いる平氏軍と戦っています。
義経はこの3年後、北陸から攻め上った源義仲(木曽義仲)の軍に加わって入京しますが、義仲の失脚とともに歴史の表舞台から姿を消しました。
戦国時代の山本山城は、戦国大名浅井氏の本城の小谷城の支城として登場します。とりわけ1570(元亀元)年にはじまった織田信長との激戦時には、浅井氏の有力家臣阿閉貞征が城主として入り、小谷城防衛の重要な役割を担いました。このため、1573(天正元)年8月、山本山城が降伏すると、その約1カ月後に小谷城は落城しました。
現在、山本山城跡に残る遺構は戦国期のものです。山頂部の主郭は平面がほぼ方形を呈し周囲に土塁が築かれ、そこから延びる尾根上には郭や堀切、土塁が残ります。特に北に向かって延びる細い尾根には、6本の堀切と8カ所の郭を交互に配置しており、郭の多くは周囲に土塁を伴っています。山本山城跡は遺構もよく残り、北近江を代表する隠れた名城といってもよいでしょう。
(滋賀県文化財保護課 北村圭弘)