近江の城めぐり
第31回 延暦寺大津市
織田信長の焼き討ちを逃れた唯一の建造物である重要文化財の瑠璃堂
巨大な城砦 焼き討ちに
天台宗総本山の比叡山延暦寺は、785(延暦4)年の伝教大師最澄による開創以来、多くの高僧を輩出し「日本仏教の母山」と称されています。平安時代中期以降、宗教的な権威によって皇室や摂関家の保護を得ます。
彼ら有力者から寄進された荘園の経営によって、延暦寺は財政基盤を強化するとともに、寺領の保護のため、さらには寺門派(園城寺)との紛争の激化により僧徒の武装化を進めます。強大な政治力、経済力、軍事力を擁した延暦寺は、日本における中核的な宗教勢力として君臨しました。
その上、比叡山は京都と近江を結ぶ街道を押さえる重要な戦略上の拠点で、三塔十六谷と呼ばれる延暦寺境内には、3千にも及ぶとされる堂塔僧坊が築かれていました。見方を変えれば、延暦寺は巨大な城砦でもあったのです。
1570(元亀元)年、織田信長に敵対した浅井長政・朝倉義景の連合軍が比叡山にこもります。これが原因となり翌年には、近江に軍勢を進めた信長は比叡山を総攻撃します。信長の軍勢は、まず山麓の坂本に乱入して町と日吉社を焼き払います。
さらに山上に攻め上ると、根本中堂をはじめとする延暦寺の堂塔伽藍
現在、延暦寺の境内で焼き討ちの痕跡を見つけることは容易ではありません。しかし、創建以来最大の受難を忘れないため、延暦寺は境内の一角に「平和の塔 元亀兵乱殉難者鎮魂塚」を建立し、信長の軍勢を含めたすべての戦没者を慰霊し、恒久の平和を祈願しています。
(滋賀県文化財保護課 古川史隆)