近江の城めぐり
第28回 宇佐山城大津市
宇佐山城跡の石垣。現地には門跡から伸びる溝跡なども残っている
(大津市錦織町)
森可成、京への往来守る
大津市の近江神宮の背後にそびえる標高335mの宇佐山の山頂には現在、テレビ局の中継パラボラアンテナが建っています。1570(元亀元)年5月9日、浅井長政の反逆で越前朝倉攻めに失敗した織田信長は、京都への往来を確保するため、この山に宇佐山城(「信長公記」では「宇佐山の拵」を造り、家臣の森可成を置きます。
森可成は城の北に坂本と京都を結ぶ山中越えの新道を造り、南にある京都と近江の国境となる逢坂の関や小関越えを閉鎖し、往来の監視を強化していきます。
同年6月28日の姉川合戦後の8月20日、今度は大坂で三好三人衆が足利義昭打倒に向けて蜂起します。信長と義昭はただちに主力部隊を大坂に向けますが、この隙を突いて、9月16日、浅井長政・朝倉義景の連合軍が延暦寺と呼応して西近江に進軍し、京都を制圧しようとします。9月19日、宇佐山を守備していた森可成は京都への侵入を阻止するため、城から討って出ますが、討ち死にしてしまいます。
宇佐山城は連合軍の猛攻を受けますが、可成の家老である各務元政らが城兵を指揮して頑強に抵抗します。信長はただちに大坂を撤退し、自ら宇佐山城に入り、浅井・朝倉連合軍と延暦寺の僧兵が籠もる比叡山を包囲するため、延暦寺に通じる道の京都・近江の出入り口に兵を置き、兵糧攻めにかかります。しかし、両軍は膠着状態のまま時だけが過ぎ、天皇の仲裁により和睦にいたるのは雪が降り始めた12月でした。
森可成は聖衆来迎寺あたりで討ち死にしたと言われ、当時の住職真雄が、遺体を夜間ひそかに運び込み葬ったといわれています。比叡山の僧兵らが信長の敵である浅井・朝倉側についたことが、翌年の比叡山焼き討ちの原因をつくったとされていますが、聖衆来迎寺は可成の墓があることから焼き討ちを免れたということです。
(滋賀県文化財保護課 仲川靖)