近江の城めぐり

第25回 鈎陣所栗東市

鈎陣所跡の伝承地として、土塁や堀などを描いた江戸時代の上鈎村絵図
(米原市上平寺)

幕府中枢と作戦本部担う

1487(長享元)年9月12日、征夷大将軍の足利義尚よしひさは幕府軍や守護大名らを従え、みずから近江国へ出陣します。出陣の目的は、近江守護の六角高頼たかよりを打倒するためだといわれています。六角高頼は、応仁の乱後の混乱期に、近江国内にあった京都・奈良の有力社寺や幕府家臣団の所有する荘園を、実力で奪い取っていました。その行為をやめさせ、領主の権利を奪還するために、将軍みずから軍事行動に乗り出したわけです。これを「まがりの陣」と呼びます。

義尚はまず、比叡山麓の坂本に陣を置きましたが、10月4日には琵琶湖を渡って「鈎之安養寺」に進軍しました。現在の栗東市安養寺あんようじに所在する、東方山安養寺のことです。同月27日にはさらに、「鈎真宝館しんぽうかん」に移動しました。義尚はその場所に新しく「仮御陣所」を建立します。

やがて将軍の居館は「鈎御所」あるいは「江州御所」などと呼ばれるようになり、1489(長享3)年3月26日に義尚の病死で幕を閉じるまでの約1年5カ月間存続しました。

公家の日記などによると、鈎御所には小袖ノ間(対面所)、小侍所こさむらいどころ、御門、番所、御厩おんうまや持仏堂じぶつどうなどといった施設のあったことがわかりますが、将軍の居館があった場所は現在のところ不明です。上鈎かみまがりに所在する永正寺えいしょうじを跡地とする説があり、陣所の遺構と伝える土塁も存在しますが、その築造時期は不明です。中世に鈎郷と呼ばれた栗東市上鈎、下鈎しもまがり、安養寺の広い範囲に、将軍居館を取り巻く陣所が展開したのでしょう。

筆者は、鈎陣所を単なる軍事上の作戦司令本部ではなく、武家政権の最高権力者が執務した日本の中央政庁として、「鈎幕府」の中枢機関であったと評価しています。しかしながら、その跡地がいまだ正確にわからないのは、日本史上の大きな謎のひとつといってよいでしょう。その確定は、今後の研究にまつしかありません。

(滋賀県文化財保護課 井上優)