近江の城めぐり

第21回 小谷城(上)長浜市

小谷城の南郭群の中心に当たる大広間
(長浜市湖北町伊部)

浅井氏の権力構造体現

小谷おだに城は、北近江の戦国大名、浅井氏三代の居城として有名です。城が築かれた小谷山は標高495mの独立山塊で、山上から近江を一望できる立地にあり、その存在は遠方からも認めることができます。

戦国時代当時、小谷山は周囲に沼地が点在する天然の要塞ようさいであり、その南麓は北陸と東海、畿内を結ぶ街道で、琵琶湖上につながる河川舟運が交わる水陸交通の要衝でした。浅井氏が小谷山に築城したのは、こうした絶好のロケーションを知ってのことでしょう。

小谷山を上空から眺めると、山頂から南側に向かって二筋の尾根がV字状に延びています。小谷城の本城部分はそのうちの東側尾根上にあり、大きな平坦地(くるわ)がひな壇状にいくつも連なっています。戦国大名の居城は領国統治の中枢です。御殿跡が発掘されたこの郭群こそ、浅井氏権力の心臓部と見られます。

ところで、この本城部分の郭群は京極丸を中心とする北群と、大広間を中心とする南群とに分かれ、道の構造もそれぞれで異なります。南群は道と郭とが明確に分離し、多くの家臣たちがやってくる公的空間となっています。一方、北群は郭のなかを道が通過し、限られた人たちしか出入りできない格の高い空間と考えられます。北群は南群より標高が高いことも、これを裏付けています。

1525(大永5)年、北近江の守護京極氏の家臣であった浅井氏の初代亮政すけまさは、京極高慶たかよしを北群の京極丸に迎えて実権を握りました。そして、京極高吉(高慶が改名か)に娘を嫁がせた2代久政ひさまさは、引退後に北群で生活し、3代長政ながまさは浅井氏当主として南群にり、家臣団を率いて領国経営にあたっていたことが、1573(天正元)年の落城時の様子からうかがわれます。

京極氏を奉じて実権をふるうという亮政すけまさが構築した浅井氏の権力モデルは、小谷城の本城部分の構造に見事にあらわれているのです。

(滋賀県文化財保護課 北村圭弘)