近江の城めぐり

第20回 肥田城彦根市

肥田城の水攻めに使われた土塁跡に建つ石碑
(彦根市肥田町)

日本初 水攻めの舞台に

近江湖東の北端の平野部に位置する肥田ひだ城は、大永年間(1521~1528)に六角氏家臣の高野瀬たかのせ隆重たかしげが築いたもので、1559(永禄2)年に日本で初めて水攻めを受けた城とされています。

1558(永禄元)年以来、湖北を領した浅井氏が、湖東を領した六角氏の領地へと侵攻を繰り返しました。六角義賢よしかたはこれを撃退し、浅井久政の嫡男に自分の名前の一文字を与えて賢政かたまさ(後に長政)と名乗らせたり、家臣平井定武さだたけの娘を嫁がせたりして従属させました。

ところが、1559年に肥田城主の高野瀬秀頼ひでよりが賢政に寝返り、義賢に叛旗はんきをひるがえします。肥田城は義賢によって包囲され、城の周囲58町(約6キロ)に土塁を積まれ、宇曽川と愛知川のせきが切られました。土塁内には水が流れ込み、水かさは日に日に増していきました。しかし、5月28日の大洪水により土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わり、義賢は面目をつぶしてしまいました。

その後、城は修築されたとみられ、高野瀬氏の後、蜂屋頼隆はちやよりたか、長谷川秀一ひでかずと城主が替わり、1593(文禄2)年に廃城となったとされています。

肥田城は、現在、その姿を見ることはできず、構造も明らかではありませんが、発掘調査で16世紀代の屋敷跡が発見されています。かつての地名「山王」「月山」に城郭の中枢が、その周囲にある「新助屋敷」「丹波屋敷」などといった地名から家臣たちの屋敷が広がっていた様子がうかがえ、さらにこれらの周囲には「西町」「東町」などという地名があることから、町場があったと考えられます。

水攻めの土塁については、聖泉大学の敷地と宇曽川との間にその痕跡が見られるほか、野良田町の東に広がる田地のあぜのラインとして残っています。日本史上初の水攻めの痕跡を探しに訪れてみませんか?

(滋賀県文化財保護課 畑中英二)