近江の城めぐり

第19回 黒川氏城甲賀市

黒川氏城跡に残る虎口の石垣と石段
(甲賀市土山町鮎河)

横堀多用、織豊期に改変?

黒川氏城は、甲賀市土山町鮎河にあり、永禄年間に黒川玄蕃げんばが築城したと伝わっています。県道507号線に県道9号線が突き当たる交差点北側、鈴鹿山系から伸びてくる支脈の先端にあたる麓からの高さ50mの丘陵上に城は位置しています。

山頂部の四方を高さ2mの高い土塁で囲み、それを主郭(東西30m、南北40m)として、さらにそれを囲むように、南北と西方向に伸びる尾根上に数段の郭を配置しています。このことによって、眼下に走る街道の結節点を監視し、敵からの防御も兼ね備えています。また、横堀を多用している点や、主郭の虎口こぐち部分に、石垣と石段が認められる点は、他の甲賀の城には見られない特徴であり、織豊政権の影響下で改変を受けた可能性を示唆しています。

城の名前となった黒川氏は、藤原秀郷ひでさとを祖と称する一族で、応仁・文明年間に黒川与四郎が蒲生郡馬淵まぶち下司職げししきとなった後に六角氏にくみし、鮎河を与えられて住み着いたといわれています。いわゆる甲賀武士であり、甲賀市甲賀町から土山町の地域を治めていた北山九家に属していました。

記録では、黒川氏一族である黒川修理亮しゅりのすけ、黒川与四郎が1570(元亀元)年の野洲川合戦で、同じ甲賀武士である和田氏、三雲みくも氏と共に、信長方の佐久間信盛のぶもり、柴田勝家と戦い、1573(元亀4)年の瀬田・石山の戦いにも援軍を送り、六角氏側として活躍しました。

六角氏滅亡後は、織田側に付いていましたが、1582(天正10)年の本能寺の変の後は、甲賀郡を押さえた滝川一益に与し、その後は羽柴秀吉に従いました。そして1585(天正13)年に紀州雑賀さいが攻めの際、紀伊川築堤工事で命令に背いたため、他の甲賀武士団ともども改易、帰農させられてしまい、この城も使われなくなったと考えられます。

(滋賀県文化財保護課 木戸雅寿)