近江の城めぐり

第16回 鎌刃城・太尾山城米原市

鎌刃城跡の発掘調査で発見された主郭の枡形虎口
(米原市番場)

「境目」で浅井氏ら攻防

二つの勢力が争う境界線付近に築かれた城を「境目さかいめの城」と呼んでいます。これから紹介する鎌刃城かまはじょうもそうした城の一つです。

鎌刃城は、中山道番場ばんば宿(米原市番場)の南東、標高384mの山頂に位置しています。築城時期は不明ですが、1472(文明4)年に京極持清もちきよの家臣の今井秀遠いまいひでとおが、鎌刃城の堀次郎左衛門を攻めたという最も古い記録があります。その後、江北の京極氏・浅井氏と江南の六角氏が争奪戦を繰り広げ、1559(永禄2)年以降は浅井長政に属する堀氏が城主となります。

1570(元亀元)年6月、堀氏が一族の樋口氏とともに織田信長にくだると、長政は鎌刃城を攻撃して奪い取ります。直後の姉川の合戦で長政が敗れると、その後は織田方の城として存続しますが、1574(天正2)年、突如、堀・樋口両氏が改易され、翌年、信長は鎌刃城の備蓄米を徳川家康に与えました。これが鎌刃城に関する最後の記録です。おそらくこれよりそう遠くない時期に廃城になったと思われます。

城の規模は南北・東西ともに約400mで、主郭から西・南・北に延びる尾根上に郭を配しています。西尾根の先端には近江では珍しい連続竪堀たてぼりがあります。また主郭北面中央からは、石段や石垣で囲まれた枡形虎口ますがたこぐちが発掘されました。

JR米原駅東側の山上にある太尾山ふとおやま城(米原市米原)も、江南・江北の境界線に位置した境目の城の一つです。16世紀の記録に、京極・浅井と六角の両勢力が太尾山城を舞台に攻防を繰り広げる様子が記されていますが、最終的には織田信長の近江侵攻によって廃城となったようです。城は、北城と南城からなる別城一郭べつじょういっかくと呼ばれる構造で、両城とも尾根上に郭や土塁や堀切を階段状に配しています。

鎌刃城跡では現在、毎年6月第1日曜日に、地元自治体と住民とが協働で城跡の見学会や講演会などを開催する「鎌刃城まつり」を実施し、城跡の顕彰に努めています。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)

※今年の「鎌刃城まつり」は12月6日(日)に延期開催予定です。