近江の城めぐり

第15回 京極氏館・上平寺城米原市

京極氏遺跡の中にある庭園跡。南側には館跡が隣接している
(米原市上平寺)

北近江の政治・文化の中心

京極きょうごく氏は鎌倉時代から江戸時代の末まで続いた稀有けうな、また日本史上でも有名な一族です。この京極氏の足跡が伊吹山の南麓の上平寺じょうへいじに京極氏遺跡として残っています。

佐々木氏の分家に過ぎなかった京極氏ですが、南北朝時代の京極道誉どうよや、室町時代の京極持清もちきよのころには、本家六角氏をしのぐ力を持ちました。持清の死後、京極氏は家督争いによる内紛で衰退しますが、1505(永正2)年に京極高清たかきよが争いを収拾し、上平寺の地に居館や山城を整備しました。

高清は鎌倉時代からの本拠地であった柏原館かしわばらやかたを廃し、伊吹山の南麓に新たに京極氏館を整備しました。館の全体の規模は東西約170m、南北約250mで、この奥には巨石を用いた庭園があり、ここでは京極氏と家臣団の主従関係を確認する儀式「式三献しきさんごん」が行われました。

この居館を中心として、南西に家臣団の屋敷を、南に城下町を整備し、北には戦に備えた詰め城の上平寺城を築きました。上平寺城は、元々山寺があったところに築城され、この西側にある弥高寺やたかでらも山城として利用されました。京極氏が築城した山城には太平寺たいへいじ城や勝楽寺しょうらくじ城など、山寺を利用したものがあります。これは信仰の対象地に山城を築くことによって、自らの権威を高める目的があったものと思われます。

このように京極氏遺跡は、「庭園のある館」「家臣団の屋敷」「詰め城」がセットで良好に残る全国的にもまれな遺跡群であるため、2004年に国史跡に指定されました。

京極氏館や上平寺城は約20年間、北近江の政治や文化の中心でした。しかし1523(大永3)年に起きた家臣団のクーデターで落城、廃絶し、これによって京極氏は衰退、北近江は家臣の浅井氏が実権を握ることになります。そして京極氏は高次・高知兄弟に再興されるまで、歴史の表舞台から消えてしまいます。

(滋賀県文化財保護課 福西貴彦)