近江の城めぐり
第14回 勝楽寺城甲良町
勝楽寺境内に建つ京極(佐々木)道誉の墓
(甲良町正楽寺)
道誉に由来?古い形態持つ
滋賀県に残された城郭の多くは、戦国時代の騒乱に関わって築城されたという印象が強いと思います。しかし、戦国期より以前の南北朝時代の動乱に関わる伝承を持つ城郭もいくつかあります。第1回で紹介した観音寺城(近江八幡市、東近江市)もそうですが、今回紹介する勝楽寺城も、南北朝時代に足利尊氏の盟友として室町幕府の創設に重要な役割を担った京極氏第5代の当主、高氏の命令で配下の高築豊後守が築いたと伝承されています。
城は犬上川の扇状地の奥にある勝楽寺山の頂上部に位置し、犬上川下流付近を監視することを目的として築城されたと推定されます。一部に石垣、土塁が残るものの、城を構成する大部分の郭は明確な防御施設を持たず、地面を削って造成され、稜線上に連なっているだけです。このため、古い形態を持っているものとされています。
築城を命じたとされる京極高氏(後に出家し、道誉と名乗ります)は、元々坂田郡を本拠地としていましたが、幕府に出仕する交通上の利便性から、犬上郡甲良町正楽寺付近を本拠地に選び、館と城を構えたとされます。
勝楽寺山の麓にある勝楽寺は、道誉の菩提寺として創建されたと伝えられ、境内には彼の墓塔とされる石塔が残されています。高氏は「ばさら大名」の異名を持ち、皇族や有力寺院の権威をおそれない大胆な行動をとることがありました。その一方で、連歌集に作品が収録されるといった高い教養を示す逸話も残されています。
なお、勝楽寺城については多賀豊後守の城との伝承もあります。多賀氏は多賀大社の神官から転じた豪族で、代々「豊後守」を名乗る一族は京極氏の家臣となり、応仁の乱では東軍側で活躍しました。犬上郡甲良町下之郷付近が本拠とも言われており、近くにあるこの城を利用したのかもしれません。
(滋賀県文化財保護課 上垣幸徳)