近江の城めぐり

第8回 鎌掛城日野町

鎌掛城が建っていた山のふもとにある山屋敷跡。今も土塁が残っている。
(日野町鎌掛)

蒲生秀紀の非運を刻む

鎌掛かいがけ城は日野町鎌掛の南東、国天然記念物「鎌掛の屏風びょうぶ岩」の上方に位置します。蒲生氏の本城である音羽城(日野町音羽)の支城とみられます。日野から伊勢へ通じる御代参ごだいさん街道に面して築かれており、ここににらみを利かせた城であることがうかがえます。

蒲生氏は、戦国時代に守護六角氏に重臣として仕えた一族です。蒲生氏といえば氏郷が有名ですが、鎌掛城は氏郷より3代前の当主秀紀ひでのりのときに歴史に現れます。

若くして音羽城の城主となった秀紀は1522(大永2)年、叔父高郷たかさとと彼を支援する六角定頼の2万の大軍に包囲されます。背景には高郷との家督争いがあったようです。

秀紀方は8カ月の籠城に耐えましたがついに降伏し、秀紀は鎌掛城に隠居し、家督は高郷の長男定秀に移譲されました。そして2年後、高郷が放った刺客に毒を盛られて暗殺されます。毒を飲んだことを悟った秀紀は、腹を十文字にき切って眼前の堀に身を投げたといいます。

鎌掛城は山頂に、本丸と二の丸とみられるくるわを設けて主郭としています。これらの郭は地盤を削りだした土塁で囲まれ、本丸の入口には武者隠しを備えて防御の仕組みを整えています。主郭から北東の二方向に伸びる尾根には、数段の郭を設けて敵の攻撃に備えています。両尾根にはさまれた谷の最上位には石組み井戸が残されており、主郭内部の方形土壇とともに、ここが居住性を持つ城であったことを示しています。

また、西方の山麓には館跡が残されており、「山屋敷」と呼ばれています。空堀と土塁で三方を囲み、内部は土塁と土壇で区画されています。氏郷の父、賢秀かたひでがここに隠居したといわれています。

六角氏衰亡後、蒲生氏郷は信長・秀吉に仕え、近江日野から伊勢松坂、会津若松へと転封されます。鎌掛城は氏郷の伊勢転封とともに廃城となったようです。

(滋賀県文化財保護課 伊庭功)