近江の城めぐり

第6回 佐生城・後藤氏館東近江市

佐生城跡に残る石垣。櫓台が築かれていたとみられる。
(東近江市五個荘日吉町)

石垣を多用 土豪の拠点

近江八幡市と東近江市の境界にあるきぬがさ山とその周辺の丘陵には、山頂部に位置する観音寺城の他にも城郭遺構が残されています。特に、繖山北端の標高160mの小峰頂部にある佐生さそう城は、くるわの周囲に土塁を巡らせ、その外側に石垣を構築し、観音寺城と同じく石垣を多用しているところから注目される城郭です。

城はほぼ三角形の平面を持つ単独の郭で、周囲を土塁が巡り、南西隅には土塁の一部に、高さ4mに及ぶ石垣がある櫓台やぐらだいと思われる部分が造られています。佐生城の東側の山には和田城があり、二つの城で観音寺城への東からの攻撃に備えていたものと考えられます。

この佐生城の主は後藤氏と伝えられています。織田信長が領有する以前の近江では、湖南から湖東地域にかけて、近江守護の六角氏に従う土豪が存在していました。後藤氏もその有力な土豪の一人で、六角氏に拮抗きっこうする力を持っていました。後藤氏は1563(永禄6)年にその力を恐れた六角義弼よしすけに、当主賢豊かたとよ父子が暗殺されてしまいます。この事件は「観音寺騒動」を引き起こし、六角氏衰退の始まりとなりました。

後藤氏の領地の中心と考えられる東近江市中羽田町には、滋賀県史跡として指定された館跡があります。館跡は、堀と土塁で囲われた平面が台形の郭から成り、外周の堀跡を含めて東西が約100m、南北の東辺で約100m、西辺で120mの規模があります。

西辺の土塁には虎口こぐちが開いており、虎口の側面には観音寺城と類似した石積みが構築されています。ただし、土塁は現状では北辺と西辺にのみ残り、堀の一部は埋没しています。また、館内部には柵、井戸、掘立柱建物の存在が発掘調査で確認されていますが、主殿などの主要施設については解明されていません。

(滋賀県文化財保護課 上垣幸徳)