近江の城めぐり

第5回 目加田城愛荘町

土塁が残る目加田城跡。土塁の右側に舟入があった。
(愛荘町目加田)

安土から退去後に改修?

愛荘町目加田地区の公民館横には、土塁に囲まれた方形単郭の城館跡があります。佐々木六角氏に代々仕えてきた目賀田氏の城です。堀の一部が舟入になっており、傍を流れる岩倉川につながり、宇曽川を経て琵琶湖まで船で出られる水運を活用した城であることが発掘調査で分かりました。

この目加田めかた城には興味深い話が伝わっています。1576(天正4)年に織田信長が安土城を築くに当たって、それまで目賀田山(安土山)に城を構えていた42代目の摂津守貞政に立ち退きを要請したというのです。貞政は光明寺野(愛荘町目加田)の所領地に戻り、目加田城を改修したといわれています。

この話は、明智光秀の伝記「明智軍記」と、秀吉に仕えていた前野氏の家伝史料「前野家文書」に出てきますが、どちらも信憑しんぴょう性に欠けると言われています。ただ、安土城の南東尾根筋の上に位置する「お茶屋平」「馬場平」と呼ばれる郭には、中世の城に見られる土塁や改築された石垣があり、ここが目賀田氏の城であったのかもしれません。

貞政は1563(永禄6)年の観音寺騒動の後、浅井長政に従い、1568(永禄11)年の織田信長の近江侵攻の時には、信長の配下となっていました。43代目の摂津守堅政かたまさは、1582(天正10)年の本能寺の変で明智方に付き、羽柴方に捕らえられ切腹は免れるものの浪人となり、1597(慶長2)年に目加田城は廃城となってしまいました。

廃城から390年たった1987年、目賀田氏の功績や目加田城の文化財としての価値を子々孫々受け継いでもらおうと、全国の「めかた・めがた・めかだ」姓の方が集まり、「全国目加田会」が設立されました。地元の方と一緒に会報の発行や研究会などを開催しており、今では全国のめかたさんたちと地元を結ぶ絆の城となっています。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)