近江の城めぐり

第3回 八幡山城近江八幡市

八幡山城が建っていた八幡山と城下町跡

天下人の姿 秀吉が示す

安土城を築いた織田信長が1582(天正10)年に本能寺の変であっけなくこの世を去った後、後継者となったのは羽柴(後に豊臣)秀吉でした。関白に任じられた1585(天正13)年、秀吉は近江43万石をおいの羽柴秀次に与えます。この時、秀次の居城は安土城の西方に位置する標高285mの八幡山に構えられることになりました。

この支配拠点移動の背景には、織田家の象徴である安土城を廃城とすることで「信長の後継者」から脱却し、「天下人」へとのぼりつめた姿を示そうとする秀吉の思惑が込められていたのではないかとも考えられています。

ただ、八幡山城には安土城との類似点が多くあります。特に山内各所の高石垣、現在は山頂の瑞雲寺境内の入口となっている枡形虎口ますがたこぐち、過去の発掘調査で確認された瓦や、羽柴秀次の館跡と伝えられる礎石建物などの存在は、「織豊系しょくほうけい城郭」と称される、織田・豊臣氏の影響の下に築城された一連の城郭の特徴を示しています。

また、山頂に天守などの主郭部、山麓に居館を構え、八幡堀を境にしてその外側に城下町(山下町さんげちょう)が存在する構造も、西麓を流れる安土川によって山下町と区分される安土城と類似しています。このように秀吉の城作りには、信長のものを継承している部分が多く認められます。

秀吉自身は大坂に城を構えますが、近江の要となる八幡山城には、一族の者を封じ、八幡山城の新規築城と同時期に近江国内の要衝に配下の武将を置きます。その理由として、当時存在した「東の脅威」が挙げられます。関白に任じられたとはいえ、東海には徳川家康、関東には北条氏が依然として勢力を広げていました。この「東の脅威」への備えとして、東国の出口となる近江に防衛拠点を設けておく必要があったといえるでしょう。

(滋賀県文化財保護課 上垣幸徳)