近江の城めぐり

第2回 安土城近江八幡市・東近江市

安土城跡の入口に建つ「安土城址」の石碑。大正から昭和期のジャーナリストだった徳富蘇峰の筆による文字が刻まれている
(近江八幡市安土町下豊浦)

信長、黄金見せる座敷も

戦国時代には、戦に備えるだけでなく、住まいのための施設を兼ねた城が多くなってきます。安土城も御殿とともに、天主にも織田信長の居住空間があります。一方で「見せる」城という他にはない一面を持っていたようです。若いころ、うつけ者・かぶき者と言われた信長です。城の使い方まで自由奔放に「かぶいて」いたということでしょうか。信長の茶の師匠であるった津田宋及そうきゅうが記した「天王寺屋会記てんのうじやかいき」という茶会記ちゃかいきにその一面がうかがわれるので見てみましょう。

一つ目は1578(天正6)年正月12日の記事です。年賀のあいさつに行き、天主やその近くの御殿を見せてもらった後で座敷で待たされ、「かうさく(耕作)」の絵が描かれた座敷にうず高く積まれた黄金1万枚を見せられたというのです。

黄金1万枚は約3.73トンになり、床が抜けてしまうほどの重さになります。ちなみに、これを現在(2013年当時)の通貨に置き換えると、231億2,500万円くらいです。黄金を見せる座敷部屋が特別に造られていたことが分かる記事です。

二つ目は1582(天正10)年正月の記事です。信長は大名・小名を問わず銭100文(現在の3,700円くらい)で、御殿の御幸みゆきの間を拝観させました。信長への祝儀という説もありますが、拝観料だとすれば、後にも先にも、城の中を有料拝観させた者は信長以外にいません。この時は、他に南殿なんでん江雲寺こううんじ御殿も見せたということです。

同年6月2日、信長は本能寺で明智光秀に滅ぼされます。本能寺の変がなければ、次の年には天主の有料拝観があったかもしれません。

こうした出来事は安土城の持つ一つの顔を表したにすぎません。これまでの調査によって、安土城にはさまざまな顔があることが分かってきました。そのあたりは回を改めてご紹介します。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)