近江の城めぐり

第1回 観音寺城近江八幡市・東近江市

【伝平井丸虎口】
観音寺城内にあったと伝わる佐々木六角氏の家臣、平井氏の屋敷地への入り口。城内で最も大きな石が使われている。
(近江八幡市安土町石寺)

中世の領主権力を象徴

観音寺城は、近江守護の佐々木六角氏の居城です。標高432メートルのきぬがさ山の山頂部から南斜面にかけて屋敷跡とされる平坦地が広がる巨大な山城で、中世五大山城の一つに数えられます。また、安土城以前の城としては例外的に石垣が多用されていることでも有名です。

佐々木六角氏は、源平合戦の戦功により近江守護となり、織田信長によって観音寺城を追われるまで守護職を務めました。佐々木六角氏は、初めは小脇(東近江市)、ついで金剛寺(近江八幡市)に居館を構えましたが、室町時代以降は、観音寺城を居城としました。

1568(永禄11)年に信長に城を追われ、その後廃城となったようです。

1544(天文13)年秋、連歌師の谷宗牧たにそうぼくが観音寺城を訪れ、山上にある建物の2階の座敷に案内されました。宗牧は、その時の様子を「東国紀行」という日記に、座敷は周囲の眺望に優れ、内部には茶器の名品が数多く並べられており、また退出する時に古筆の掛け軸を贈られたと記しています。この記述からは、城内で風雅な営みが行われていたことがうかがわれます。

また、山上の郭群で実施された発掘調査でも、天目てんもく茶碗などの茶器類の他、中国や朝鮮から輸入された陶磁器や土師器はじきなど、生活に使っていた遺物が多量に出土しており、山上で暮らしていたことが明らかとなりました。

これらのことから、観音寺城が、軍事要塞ようさいというよりも、日々の生活や他者との交流の場である守護の居館としての性格が強い城であったことをうかがわせると同時に、佐々木六角氏の権力の性格を表しています。

中世の近江では、強大な力をもった戦国大名が存在せず、地域を自立的に支配する在地領主たちを、守護佐々木六角氏が統合するという形で一国の統治が実現していました。まさに、観音寺城は中世近江の領主権力のあり方を象徴する城と言えるでしょう。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下浩)