近江の城めぐり

第66回 称名寺長浜市

一向一揆で織田信長に立ち向かった称名寺の土塁跡
(長浜市尊勝寺町)

一揆を組織、信長と敵対

長浜市尊勝寺町の称名寺しょうみょうじは、北西方向に小谷城跡を仰ぐ位置にあり、周辺には今なお土塁や堀の痕跡を認めることができます。

戦国時代、湖北の地(長浜市・米原市)には真宗(一向宗)が深く浸透し、門徒たちは有力な10カ所の寺(湖北十カ寺)を中心に教団を形成し、一揆を組織して織田信長と激しく戦いました。

1570(元亀元)年9月、本願寺第十一世顕如けんにょ上人が諸国にげきを飛ばして信長に宣戦布告し、当時大坂にあった本願寺に籠城すると、湖北でも一向一揆が蜂起し、小谷城主の浅井長政の軍勢と連合して信長と戦いはじめます。連合軍の先鋒は一揆勢がつとめることが多かったらしく、本願寺の坊官ぼうかん下間正秀しもつませいしゅうは、一揆勢と浅井軍が交代で先鋒をつとめるよう、長政に申し入れています。

そうしたなかでの最大の激戦は、1571(元亀2)年の箕浦合戦(米原市番場付近)とそれにつづく「さいかち浜」の戦い(長浜市下坂浜付近)です。信長軍は一揆勢と浅井軍を琵琶湖に追い詰め、数多くを溺死させたと伝えられます。そして蜂起から4年目の1573(天正元)年9月、小谷城が落城し、浅井氏が滅亡すると、湖北での一向一揆も終息しました。

ところで湖北十カ寺とは現在の長浜市域にあった称名寺をはじめ、誓願寺、真宗寺、順慶寺じゅんきょうじ、授法寺、浄願寺、金光寺こんこうじ福勝寺しょうじと、米原市域にあった福田寺ふくでんじと誓願寺です。大坂本願寺(石山本願寺)が、のちに豊臣秀吉が大坂城を築く要害の地にそびえ立つ大城郭であったように、湖北十カ寺もまたそれぞれに堀や土塁をめぐらせた城館でした。

称名寺は小谷落城後、いったん多賀の水谷に退転しますが、1582(天正10)年の本能寺の変後、住職の性慶が秀吉に仕えて帰還を許され、浅井郡代官として活躍します。寺の付近一帯は浅井氏時代には市がたつ城下町の一部でした。近江戦国へ思いをはせるには格好のスポットといってよいでしょう。

(滋賀県文化財保護課 北村圭弘)