近江の城めぐり

第63回 日野城日野町

日野城跡に残る土塁と堀の跡
(日野町西大路)

蒲生氏、信長一族守る

日野城は、日野川上流部、中山道と東海道のバイパスである御代参ごだいさん街道沿いの近江商人の町、日野に位置しています。中世には「日野市」と呼ばれる市がたち、人と物が行き交う場所でした。

この城は、一度だけ歴史の表舞台にその名を見せます。それは、次の事件が発端でした。

1582(天正10)年6月2日、本能寺の変が起こります。京で織田信長・信忠父子を討った明智光秀の軍勢が安土に向かうであろうことは容易に想像できました。その時に安土城の留守を守っていたのが蒲生右兵衛大輔賢秀がもううひょうえだゆうかたひでです。彼は、信長の妻妾さいしょう子息を自らの城にかくまうこととし、息子である蒲生忠三郎氏郷ちゅうざぶろううじさとを呼び寄せます。信長の次女冬姫を妻にしていた氏郷にとっては主君でもあり義理の父が討たれたという衝撃的な事件でした。

彼は手勢500騎、輿こし50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して安土城に急行しました。そして、とるものもとりあえず安土城を発ち向かった先、それが蒲生氏の居城日野城でした。

日野城は日野の町の東方に広がる丘陵裾につくられた平城です。主郭しゅかくは一辺約100mの方形で、周囲を高い土塁と堀で囲み、とりわけ北側の大手と伝えられるあたりにはL字状の堀と土塁が設けられており、防御の様子をみてとることができます。安土城を接収した後に迫りくるであろう光秀の軍勢に備えた緊迫感の中、賢秀・氏郷父子は信長の妻妾子息とともにここに立てこもったのでしょう。しかし、6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉によって光秀が討たれます。

安寧を取り戻した彼らは新たな道を歩み始めます。氏郷は、伊勢松坂城主、のちに陸奥黒川城(のちの会津若松城)の城主となり戦国時代を駆け抜けていきました。日野城は、田中吉政、長束なつか正家が城主となり、1600(慶長5)年の関ケ原合戦の後に廃城となります。中世以来の日野商人の町並みを楽しんだ後は、日野城跡で天正10年6月の緊迫の十数日を感じてみてはいかがでしょうか。

(滋賀県文化財保護課 畑中英二)