近江の城めぐり

第49回 小川城甲賀市

徳川家康の「伊賀越」ゆかりの小川城跡に残る虎口
(甲賀市信楽町小川)

家康、伊賀越で立ち寄る

小川城は甲賀市信楽町の中心部から南西に約3.5㎞の城山の山頂に位置しています。甲賀市域には約200の城郭がありますが、その多くは、単郭方形たんかくほうけいと呼ばれる四方を土塁で囲んだ形態が一般的です。しかし、小川城は複数のくるわを組み合わせた一般的な山城の形態を示しています。築城時期や城主には様々な説がありますが、16世紀後半には多羅尾たらお氏の城となったようです。

京都から多羅尾を通り、伊賀へ抜ける街道を見通す位置にあることから、多羅尾氏にとって重要な城だったのは容易に想像できます。そのため多羅尾氏によって小川城は改修を受け、1585(天正13)年ごろまでには今の形になったと考えられます。しかしその後、多羅尾氏が1595(文禄4)年の豊臣秀次の切腹に連座して改易されたことに伴い、小川城は廃城となってしまいます。

ところで、小川城は徳川家康の「伊賀越」に登場します。1582(天正10)年に本能寺の変が起きた時、家康は堺見物の後で、河内国かわちのくに四条畷に滞在していました。織田信長が討たれたことを知ると、わずかな家臣を連れて三河まで脱出を試みます。この時、光秀の軍勢や落ち武者狩りに遭遇するのを避けるため、伊賀山中を越えたことから「伊賀越」と呼ばれています。

この家康一行を山城国宇治田原から伊賀の国境まで警護したのが、実は多羅尾氏です。豊臣政権期に没落してしまう多羅尾氏ですが、この時の功績により江戸時代には代官として登用され、幕末まで存続したのでした。そして家康が道中に一夜を過ごしたのが小川城だったようです。多羅尾氏にとって重要な城であり、街道の押さえであった小川城は、立ち寄るには格好の場所だったのです。

現在の小川城は、1981年に県史跡に指定され、整備が進んでいるので、ハイキングコースとして親しまれています。また城に登ると当時と同じように信楽の中心部や伊賀山中を見渡せる、素晴らしい眺望が待っています。訪れた際にはしばし滞在し、当時それどころではなかったであろう家康に代わってこの景色を楽しんでください。

(滋賀県文化財保護課 福西貴彦)