近江の城めぐり

第48回 水口岡山城甲賀市

水口岡山城跡に残る主郭北側の石垣
(甲賀市水口町水口)

破城、豊臣期の最後示す

水口岡山みなくちおかやま城は、甲賀市水口町に位置する古城山こじょうざん(標高282m)と呼ばれる独立丘陵上に築かれた城です。1585(天正13)年に、豊臣秀吉が家臣の中村一氏かずうじに築城させたもので、丘陵の頂上部分に石垣を持つ主郭があり、瓦きの建物群が立ち並んでいました。

中世、甲賀地域では在地領主たちが自らの力で領地を守るために郡中惣ぐんちゅうそうと呼ばれる自治集団を組織していました。彼らは戦国期には様々な勢力と結びつき、近江の覇権争いにも加担していましたが、それが災いし、結果的に天下取りに乗り出した豊臣秀吉に解体されてしまいます。そして甲賀の新しい支配の要として築かれたのがこの水口岡山城だったのです。

石垣を持ち、瓦葺きの建物が立ち並ぶ城の姿は、土づくりだったそれまでの甲賀の城とは全く異なるもので、甲賀の人々のみならず、街道を行き交う人々に対しても十分に威容を感じさせたことでしょう。

また北に蒲生野、南に水口の町並みと東海道、東に鈴鹿山地、遠く西に琵琶湖を望むことができる立地は、戦略的に重要な城であったことをうかがわせます。特に秀吉が徳川家康と戦った小牧・長久手の戦いの翌年に築城されたことは、水口岡山城が東方の徳川家康に対する防御を意識した軍事的要衝だったことを示しています。これは歴代城主に増田長盛ましたながもり長束正家なつかまさいえといった秀吉子飼いの家臣が配されていることからも読み取れます。長束正家は関ケ原の戦いで西軍に付き敗れたため、合戦後に廃城となりました。

現在、甲賀市教育委員会が水口岡山城遺跡の整備のための発掘調査を行っており、当時の様子が明らかになりつつあります。特徴的なのは城を破壊する破城はじょうの痕跡がみられる点です。主な郭や大手道周辺はすべて石垣だったようですが、廃城後、特に街道から見える部分の石垣を徹底的に破壊し、土で覆うなどしていました。これは、豊臣の時代の終焉しゅうえんを見せつけ、徳川の時代の到来を告げるためではないかと考えられます。

最近は、地元有志が水口岡山城の会を結成し、巨大バルーンで城を再現するなど、地域をあげて城を盛り上げています。

(滋賀県文化財保護課 福西貴彦)