近江の城めぐり

第46回 佐和山城彦根市

2段に積まれた本丸跡の石垣
(彦根市佐和山町)

石垣の石、行方分からず

JR彦根駅プラットホームの米原方面側にそびえる山が佐和山さわやまです。「三成に過ぎたるもの二つ、島の左近さこんに佐和山の城」と俗謡でうたわれた佐和山城跡が、ここにあります。城の歴史は古く、鎌倉時代の建久けんきゅう年間(1190~1199)に佐々木六角氏10代定綱の六男時綱が麓に屋敷を構えたことが始まりとされています。

その後、近江の北部(江北)を治める京極氏と南部(江南)を治める六角氏の領地争奪戦の拠点となり、江北と江南の「境目の城」として城が造られ、浅井長政時代には磯野員昌いそやかずまさが、織田信長時代には丹羽長秀にわながひでが、羽柴秀吉時代には堀尾吉春ほりおよしはる、石田三成といった重臣が城主となっています。1600(慶長5)年の関ケ原合戦後は、徳川四天王の一人、井伊直政なおまさが城主となりますが、1604(慶長9)年の彦根城着工に伴い、佐和山城は廃城となります。

さて、井伊家の7代藩主・直信なおのぶの時代(1714~1734)に行われた佐和山城とその周辺の聞き取り調査「古城御山往昔咄聞集書こじょうおんやまおうじゃくはなしききあつめがき」によると「本丸之上石垣壱丈五尺(約4m55cm)其上ニ五重之天守」などの記載があり、三成時代に石垣の上に天守があったことがうかがわれます。これを証明するかのように、本丸跡の東隅に2段に積まれた、石垣の角に当たる部分が残っています。石は佐和山の地盤を構成するチャートといわれる石です。

ところで、佐和山城の石垣の石は彦根城に再利用したと、井伊家代々の藩主の事跡を記した「井伊年譜」には書かれています。しかし、彦根城の石垣の石は花崗岩かこうがんや湖東流紋岩りゅうもんがん溶結凝灰岩ようけつぎょうかいがん)が大半で、チャートは見あたらないと城郭研究者が最近報告しています。チャートは加工がしにくく再利用に向かない石なので、残していったのかもしれません。

もし、佐和山城の石垣にもともと花崗岩や湖東流紋岩が使われていたのであれば、花崗岩や湖東流紋岩だけ選びとって彦根城に再利用した可能性も考えられます。佐和山城の石垣の石は何であったのか。どこから来て、いずこへ去ったのか。謎は深まる一方です。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)