近江の城めぐり

第29回 壷笠山城大津市

大津市穴太から見た壷笠山の遠望。山頂に壷笠山城が築かれた
(大津市坂本本町)

好条件備え信長に対抗

壷笠山つぼかさやま城は、京阪石山坂本線穴太駅の西側にそびえる423mの壷笠山の山頂にある城で、中腹に白鳥しらとり越えと言われた穴太と京都市を結ぶ間道かんどう(現在の東海自然道)が通っています。

1570(元亀元)年9月、織田信長が大坂へ出陣している隙に、浅井長政・朝倉義景の連合軍が延暦寺と呼応して西近江に進軍し、京都と近江の境にある宇佐山(大津市)を攻撃します。信長は急きょ大坂を退陣し、連合軍討伐のため、宇佐山城に本陣を置きました。一方、長政軍は壷笠山に、義景軍はその隣の青山に陣取り、双方のにらみ合いが始まります。

壷笠山は、比叡山延暦寺の無動むどう寺谷じだにに通じる道があって延暦寺の僧兵らとの連絡が容易な場所であること、信長の本陣である宇佐山城を見渡せること、兵糧ひょうろうの補給路であり、いざという時に逃げ口となる堅田・高島方面を見渡せる山であることなどといった好条件を備えた場所でした。このため、信長軍は浅井・朝倉連合軍を兵糧攻めにすることができず、両軍膠着こうちゃく状態のまま、年末に天皇の命令で和睦しました。

元亀争乱後は坂本城の築城まで明智光秀が入城したと伝えられ、所々に残る牛蒡積ごぼうづみの石垣や石段は光秀が築いたものとされています。しかし、発掘調査が行われていないため、城跡の詳細は不明です。

時は流れて、1987年、山頂で直線や弧線による特殊な文様が刻まれた埴輪はにわ片を見つけたと、地元の小学生が滋賀県教育委員会に届けに来られました。この埴輪片は、岡山県の都月坂とつきざか1号墳から見つかった特殊器台きだい形埴輪によく似たもので、壷笠山3世紀中ごろの滋賀県で最古級の古墳があったこと、壷笠山城を造る際、削り取られて南北35m、東西31mの楕円だえん型の平面になったことが新たに明らかになり、話題になったことを付け加えておきます。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)