近江の城めぐり

第27回 長比城・上平寺城米原市

長比城跡の西郭と土塁
(米原市)

信長の侵攻 国境で備え

1570(元亀元)年4月、越前の戦国大名朝倉氏の本拠一乗谷攻撃を目前にした織田信長のもとに、浅井長政の離反の知らせが届きます。このままでは退路を断たれると判断した信長は急ぎ、若狭街道を通って京都に戻りました。そのまま、琵琶湖の東岸を通って居城の岐阜へ戻ろうとしましたが、浅井氏が愛知川近辺まで南下してきたため、東山道を通ることができず、日野の蒲生賢秀がもうかたひでらの助けを得て千草峠を越え、北伊勢から岐阜に戻りました。

その後ただちに、浅井氏は美濃と近江との国境付近に城を築き、信長の侵攻に備えました。この時のことを「信長公記」では「浅井備前越前衆を呼越よびこし、たけくらべ・かりやす両所に要害を構へ候」と記しており、築城にあたって「越前衆」すなわち朝倉氏の援助があったことがうかがえます。

このうち「たけくらべ」の要害にあたるのが、滋賀県と岐阜県の県境に位置する野瀬山のせやま山頂に築かれた長比たけくらべ城です。この場所は、南を通る東山道をにらむ要所です。城は、東西二つの郭で構成されており、現在も土塁や竪堀がよく残っています。

一方、「かりやす」の要害にあたるのが上平寺じょうへいじ城です。上平寺城は、第15回で紹介した京極氏館(米原市)の背後の山に築かれた城です。城の南を、関ケ原から木之本まで抜ける北国脇往還ほっこくわきおうかんが通ります。現在も山頂部には土塁や竪堀、枡形虎口ますがたこぐちなどの遺構を見ることができますが、これらは京極氏時代のものではなく、浅井氏時代に改修されたものと考えられます。

いずれの城も、美濃と近江を結ぶ街道沿いに位置し、信長の侵攻に備えて築かれました。しかし、これらの城が、浅井氏の目論見通りに機能することはありませんでした。城を守備していた堀秀村ほりひでむらと樋口直房なおふさが、城が築かれて間もなく信長に内通したからです。

堀と樋口の調略に成功した信長はすぐさま近江に侵攻し、浅井氏の本拠小谷城に迫ります。そしてこの6月、姉川の合戦を迎えることになるのです。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)