近江の城めぐり

第26回 和田城甲賀市

和田城跡に残る郭と土塁
(甲賀市甲賀町和田)

義昭、将軍への出発点

1565(永禄8)年、時の将軍、足利義輝は、松永久秀と三好三人衆によって惨殺されました。その時、弟である覚慶かくけいは、奈良の興福寺別当をつとめる門跡もんぜき寺院の一条院で仏門に入っていました。末弟も殺されていた足利家の行く末は覚慶にゆだねられることになりました。

このことをいち早く察した三淵藤英みつぶちふじひで、細川藤孝ふじたかと、柳生から伊賀・甲賀の道を確保していた織田信長らは、幕府奉公衆が数多くいた近江甲賀の地に彼を逃しました。その時、甲賀地域の通行の安全(路次警固ろじけいご)を確保し、宿泊所を提供したのが、甲賀郡中惣こうかぐんちゅうそうの頭目であった和田惟政わだこれまさを筆頭とする和田氏一族でした。

覚慶は、この和田氏の館で足利将軍家を継ぐ宣言をしたと言われており、ここからさらに矢島(守山市)へと逃れ、朝倉氏の本拠一乗谷いちじょうだにに身を寄せ、最後は信長の力を借りて将軍義昭として再び上洛しました。まさに、和田城が彼の出発点となった大切な場所でした。

城は、伊賀との国境の峠にある伊賀見いがみ城から上野へと向かう道と川を見下ろす両側の丘陵上にあります。西側の丘陵上には、等間隔に南から、和田支城跡Ⅰ、和田支城跡Ⅱ、和田支城跡Ⅲ、公方屋敷支城跡、東側の丘陵上には、相対峙するように南から和田城跡、棚田山城跡、公方屋敷跡が認められます。いずれも、甲賀の城の特徴を良く表しており、丘陵頂部に高い土塁をめぐらせた単郭構造のものを中心に据え、周囲に付属するように小さなひな壇と部分的に堀切ほりきりをめぐらせたものです。

これらの名称は近代になって便宜上当てられたものであり、いずれも和田氏一族がこの地域を治めるために築いた館城やかたじろと考えられ、同名中どうみょうちゅうとよばれる一族の単位を考える上でとても大切な城郭で、国の史跡指定の候補にもなっている重要な遺跡です。

(滋賀県文化財保護課 木戸雅寿)