近江の城めぐり

第23回 田屋城高島市

田屋城の大手虎口跡
(高島市マキノ町)

海津攻め 田屋氏が入城

田屋たや城は、琵琶湖の北岸、高島市マキノ町森西地区背後の丘陵(通称城山・標高310m)に築かれた山城です。1352(観応3)年ごろ、足利尊氏の側近饗庭あえば命鶴丸みょうづるまるが築城したという伝説がありますが、これは命鶴丸が尊氏から饗庭の地を拝領したことに起因しているものと思われます。

また、室町幕府の政所まんどころ執事代であった蜷川親元にながわちかもとが記した「蜷川親元日記」の1465(寛正6)年9月10日の条に、「江州海津かいづ衆」として饗庭、新保しんぽ、田屋が親元の一族・蜷川信賢のぶかたの若君誕生の祝いに上洛したという記述があり、マキノ町周辺は饗庭氏以外に新保氏、田屋氏が地侍として勢力を持っていたということが分かります。

田屋城が初めて記録に出てくるのは、京都相国寺しょうこくじ鹿苑院主ろくおんいんじゅが記した「鹿苑日録にちろく」1538(天文7)年9月16日の条です。高島七頭しちとうと呼ばれる高島郡内の有力在地領主たちが佐々木六角定頼の命により海津を攻めた時、田屋氏は山城へ退き、饗庭氏が海津西浜に陣を敷いたとあり、この山城が田屋城であろうとされています。この記事から天文7年には田屋氏は、江北小谷城の浅井三代の初代当主浅井亮政すけまさに味方しており、饗庭氏は佐々木六角氏に味方していたことが分かります。

この時の田屋氏は田屋明政あきまさで、浅井亮政と正室蔵屋くらやとの間に出来た鶴千代と結婚し、亮政の嫡男が早世していたため娘婿の明政が浅井家の家督を継ぐことになっていました。しかし、1542(天文11)年に亮政が死去すると、亮政の側室の子の久政と家督争いをすることになります。家中を二分した争いとなりますが、結局明政は田屋に隠棲し、久政が家督を継ぐことになります。

歴史に「もし」は禁句ですが、もし明政が二代目になっていたら、その後の織田信長との姉川合戦や小谷城攻めは無かったかもしれません。

(滋賀県文化財保護課 仲川靖)