近江の城めぐり

第7回 伊庭城東近江市

伊庭城跡の周囲を巡る水路。石垣の上には城跡を示す碑が建っている。
(東近江市五個荘日吉町)

水郷の里に往時の名残

東近江市伊庭町は、室町時代、近江守護六角氏の守護代であった伊庭いば氏の本拠地です。伊庭の集落は伊庭内湖に接し、瓜生川が集落内を内湖に向かって貫通しています。また、多くの水路が集落内を縦横に巡っており、伊庭は水郷の里として知られています。

伊庭氏の居城だった伊庭城は、瓜生川沿いにありました。城の正確な位置は不明ですが、「城」「西殿」「東殿」といったかつての小字名が残る地域がそうではないかと考えられます。

現在、そのあたりには伊庭町の区事務所と、謹節館きんせつかんと呼ばれる区の集会所が建っていますが、城の遺構は残っていません。ただ、謹節館などが建つ敷地の周囲を取り巻く水路が堀の痕跡ではないかと考えられ、城が存在した頃の景観をわずかにうかがうことができます。

伊庭氏は、南北朝時代から守護代として近江支配の実務を担っていましたが、やがて六角氏を脅かすほどの力を得るようになっていきます。その背景には、六角氏が通常は京都にいて近江の在地勢力との結びつきが弱かったことと、室町幕府が守護の力を抑えるため、守護代の伊庭氏との結びつきを強めたことがあります。六角氏にとって伊庭氏は、近江支配に欠くことの出来ない存在である一方、自身の存在理由を失わせる危険な存在でもあったのです。

1467(応仁元)年にはじまる応仁の乱によって幕府の力が衰えると、六角氏は近江に対する直接支配を強めていきます。このことは、必然的に近江支配の実権をめぐる伊庭氏との対立を引き起こします。そして六角氏は、二度にわたる戦いを経て伊庭氏の排除に成功します。こうして六角氏は、守護としての権力を確立することになるのです。

現在、地元では城を中心とする水郷景観を文化的景観として保存するため、精力的な取組が進められています。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)