近江の城めぐり

第4回 彦根城彦根市

佐和山から見た彦根城。彦根山に天守がそびえる。
(彦根市金亀町)

対豊臣氏の最重要拠点

1600(慶長5)年9月15日に起こった関ケ原の合戦は、近江国の勢力配置を激変させました。それまでは、東方の徳川家康に対する防波堤として、豊臣配下の武将たちが配されていましたが、合戦後の領地替えによって徳川配下の武将たちが近江の領地を与えられ、近江は大坂城にいる豊臣氏に対する最前線と位置づけられるようになりました。

中でも、最重要拠点だったのが井伊家の居城となった彦根城です。徳川四天王の一人に数えられる井伊直政は、関ケ原の合戦での武功により、合戦に敗れた西軍の大将石田三成の旧領と、その居城だった佐和山城を与えられます。跡を継いだ嫡男直継は、佐和山の西約2キロに位置する標高136mの彦根山(金亀山)に新たに彦根城を築き、居城と定めました。標高233mと急峻きゅうしゅんな佐和山は、新たな領国支配の拠点にはふさわしくないということでしょう。それとともに、前の領主であった三成の記憶を払拭するという狙いもあったようです。彦根城の築城にあたり、佐和山城は徹底的に破壊されていることが、そのことを物語っています。

築城の工事は1604(慶長9)年より始められ、2年後には天守が完成しているので、かなりの突貫工事だったことがうかがえます。築城を急いだのは、彦根城が対豊臣氏への戦略上、重要な位置にあったことと無関係ではありません。

関ケ原合戦直後の畿内近国では、膳所の戸田一西かずあきを最西端として、越前福井に結城秀康、伊勢桑名に本多忠勝、尾張清洲に松平忠吉と、徳川一門や譜代の重臣が東西交通の要所に置かれています。

さらに、1608(慶長13)年には松平康重が丹波篠山に、翌年には岡部長盛が丹波亀山に配置され、大坂城の西方にも徳川方の武将が置かれます。彦根城は、大坂城の豊臣秀頼に対する広大な包囲網の一角を担っていたのです。

(滋賀県文化財保護課 松下浩)